岩村城址散策|過去と現在が交錯する、恵那市の歴史ロマンに触れて(アクセス・駐車場)
「霧ヶ城」の名でも知られる岩村城は、日本の歴史を見守り続けた岐阜県の誇る史跡です。
壮大なる山城は、その堂々たる姿で訪れる者に感動を与えます。
この記事では歴史のロマンを感じる旅へ、岩村城のご案内をします。
住所 | 〒509-7403 岐阜県恵那市岩村町 城山 |
営業時間 | ー |
駐車場 | あり |
費用 | ー |
ウェブサイト | ー |
Googleマップ | https://maps.app.goo.gl/WMaaJ7nCWDDVdzh39 |
岩村城、または別名「霧ヶ城」は、その歴史と壮大な構造から重要な歴史的地位を持つ城であり、岐阜県指定史跡として保護されています。その深い歴史は、源頼朝の重臣である加藤景廉が文治元年(1185年)に地頭に任命され、初めてこの地に築城したことに始まります。その後、遠山氏が城主となり、様々な歴史的事件を経て、関ヶ原の戦いや江戸時代を経て明治維新を迎えました。
この岩村城が標高717mにあり、江戸時代において藩庁(府城)としては最も高所にあるとされ、「日本三大山城」の一つに数えられるのは特筆すべき事実であり、その要害堅固な構造が天然の地形を巧みに利用したものであるため、軍事的・歴史的にも非常に価値のある存在です。
城主が数多く交代し、その都度、城の構造や領地も変化していった岩村城は、戦国時代の動乱を生き抜いた堅牢な山城です。城の構造としては、本丸、二の丸、出丸、帯曲輪、東曲輪、八幡曲輪などが設けられ、それぞれが石垣や堀切で区画され、要所要所には櫓や堀、門が配されていました。これらは防衛の観点からも、戦略的に築かれ、敵からの攻撃を効果的に阻む役割を果たしていました。
残念ながら、明治時代の廃城令によって、建造物は全て取り壊されてしまいました。しかし、現在でもその堂々とした城跡は、訪れる者たちに歴史の重みと当時の人々の生き様を感じさせてくれます。岩村城跡は、歴史愛好家や観光で訪れる方々にとって、日本の戦国時代や江戸時代を偲ぶ貴重な場所となっています。
岐阜県恵那市の「岩村城址」を訪れました。
— 御朱印ちゃん (@gosyuinchan) April 9, 2023
御城印は何種類がありましたが、「山城サミット」限定の御城印を頂きました。
「日本100名城」のスタンプも頂きました。
女城主「おつやの方」で、有名なお城です。#御朱印#御城印#日本100名城 #岩村城#岩村城址 pic.twitter.com/YSPxd0Rx0h
岩村駅から岩村城下町を辿って徒歩で行くことができます。
私も岩村城下町から徒歩で歩きました。
駐車場は2箇所あります。
岩村城登城口からン登りたい場合と本丸すぐそばにも駐車場があります。
岩村城登城口からだと約800mの山道を歩くことになります。
岩村城太鼓櫓
岩村藩主邸跡・佐藤一斎像
- 創設と位置:岩村藩主邸は、江戸時代初期(約1610年)に松平家乗によって創設され、藩主は山頂の岩村城本丸から邸へと移動していました。
- 防衛機能:邸は防衛と防備に細心の注意を払って建設され、門には番所が置かれ、出入りを厳しく監視していました。また、地下室や地下道も設けられていました。
- 変遷と火事:明治2年(1869年)の版籍奉還によって岩村藩は岩村県となり、藩主は知事の地位につきましたが、その後明治4年(1871年)の廃藩置県により知事・松平乗命は東京へ移住を命じられ、藩主邸は空家となりました。明治14年(1881年)10月30日夜、藩主邸は失火により全焼しました。
- 邸の規模:この藩主邸は非常に広大で、東西約60メートル、南北約654メートルの広さがあり、御内家、土蔵、番所を含む23の建物が存在していました。
岩村藩主邸御茶室・圓月
岩村城登城口
ここから山道を約800m登ることになります。
下田歌子生誕地
下田歌子勉学所
岩村城 藤坂
岩村城 初門跡
岩村城 土岐門跡
岩村城第二の門で、内側は馬出状の曲輪となっている。
絵図では東医門または四脚門として描かれている。
氏を破ってその城門を移築したという伝承からこの名がついた。
廃城後に徳祥寺 (岩村町 羽間) 山門として移築され現存している。
岩村城 畳橋
- 大手の入口:主要な入口(大手)は、高い石垣、枡形門、そして三重櫓によって強固に守られていました。
- アクセス方法:入口へのアクセスは、前面の空堀に架かるL字形の木橋を渡ることで可能でした。
- 畳橋(たたみばし):この木橋は「畳橋」とも呼ばれており、その名の由来は、橋の床板が畳のようにめくれる構造になっていたためです。
この構造により、大手は強固に守られており、一方で特異な構造(畳橋)も取り入れられていました。これが橋を独特で印象的なものとして位置づけ、おそらく防衛上の利点をもたらしていた可能性があります。
岩村城 追手門・三重櫓跡
- 追手門は、畳橋から棟門を通り、直角に右に曲がって櫓門に入る枡形門であり、特定の経路が設定されています。
- 門の脇には、畳橋を見下ろす配置になっている三重櫓が構えられています。
- この三重櫓は岩村城において唯一の三層からなる櫓で、城の天守に相当します。
- 岩村城下町の馬場と本通りは、この櫓を正面に見るように設定されている、つまり櫓が町の風景における中心的な存在になっています。
岩村城 霧ヶ井
岩村城 竜神の井
霧ヶ城龍神社/八幡宮跡
岩村城 帯曲輪跡
岩村城 菱櫓
菱櫓と俄坂
山の地形にあわせて石垣を積んだので菱形になった、山城特有のものである。
この上にあった建物も菱形であったので菱櫓と呼ばれた。 菱櫓は全国城郭にもその例はあまりな中世期の山城を近世城郭に改築した城郭の貴重な歴史的遺構である。
菱櫓の前に俄坂門(櫓門)があり、所多門があって、大円寺・水晶山方面を遠望監視した。
中世の頃はここが大手門(正門)で大円寺城下町説もあり、大円寺へ通する険しい急坂も残っている。
実際は裏手の門で、普段は使わないが落城等の非常口として用いられた。
坂もその意味がある、俄坂の途中に中世城の遺構である東曲輪があるが、天然の峻険を利
用し畝の来襲に備えていた。
岩村城 六段壁
「本丸」の「北東面」にある「雛壇状に築かれた六段の石垣」は、岩村城の防衛の要とも言える構造であり、見事なものであったようです。
元々は絵図の通り、最上部のみが高石垣として設計されていたが、何度もの崩落を防ぐために前面に補強の石垣を積んで、その都度形状が変化してきた結果、現在の姿に至っています。
これが、石垣の層が六段になった理由でしょう。また、この工程を通じて、城が直面した様々な困難や、それに対抗してどのようにして改修や補強が行われてきたのかがうかがえ、歴史や文化において重要な意味を持っています。
これらの改修や補強作業は、過去の技術や手法を理解する上で貴重な資料となり、歴史的な価値を高めています。
岩村城 本丸
岩村城 織田信長宿営の地
織田信長公 宿営の地
天正十年(一五八二)三月十一日、甲州(武田) 討伐の途に就いた織田信長公は、家臣団の筆頭格であった明智光秀公などを引き連れ、岩村城に入城した。
おりしもこの日、武田勝頼公は、武田家ゆかりの地天目山棲雲寺への途上、木賊山麓の田野において織田軍滝川一益隊との最後の一戦で嫡男共々敗死
享年三十七。
信長公は、三日目の十三日、岩村城に統治滞在中に武田家滅亡の一報を聞いている。
これより八十日余り後、信長公は京都・本能寺にいて、明智光秀公の謀反にあい自刃。四十九歳の生涯終えることになる。
検証 静岡大学名誉教授 小和田哲男
令和二年三月吉日
昇龍の井戸
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